?.放談 「横井君と藤原君、そして赤峰君のあげな話、こげな話」 第124回
極左になった朝日新聞【1960年〜2000年まで】
――諸悪の根源としての朝日新聞(9)

(「反日思想の撒布【1960年代まで】――諸悪の根源としての朝日新聞(8)」のつづき)
?―2/4 左翼文化人の跳梁跋扈=朝日新聞が左翼文化人を育成した
赤峰 朝日新聞整理部長や『週刊朝日』副編集長などを歴任した稲垣武氏という方がおられました。朝日新聞人でありながら、朝日新聞の報道姿勢の問題点を鋭く指摘された人です。こういう辛らつな意見を述べております。
「ブンヤは他に売るものがないから国を売るのではないか!」
また、稲垣氏は『「悪魔祓い」の戦後史』の中で進歩的文化人たちをこう評しています。
抽象的な原則論を繰り返す人、オールオアナッシングの考えをする人、現実よりも宗教的教義を尊重する人、侵略してくる外国の軍隊を歓迎しようという人、日本人のシベリア抑留を「ソ連が養ってくれた」という人、親米の日本は武装してはいけないが、共産主義になれば武装すべきという人、中国の軍隊は怖れないけれど、自衛隊を恐れる人、裁判制度よりも人民裁判を望ましいと考える人、憲法は第9条だけと信じている人、ダブルスタンダードの人、ソ連の悪行は見えない人、中国のウソには気づかない人、教え子を戦場には送らないが、この地を戦場にする人、加害者の権利を被害者の権利より優先する人、反省をしない人、常に責任をとらない人
藤原 まさにその通りです。進歩的文化人、その代表である朝日新聞は稲垣氏の指摘がすべて当てはまりますね。朝日新聞の紙面は、昔から稲垣氏の指摘のようにつくられているのがよくわかります。
赤峰 60年の安保闘争が敗北で終わりまして反日の動きも挫折するわけですが、それでも朝日新聞は巻き返しを図ろうとしました。とくに、朝日新聞の労働争議の一方の旗頭であった広岡知男氏が、朝日新聞社の内紛「村山事件」のどさくさにまぎれて社長になって以降の朝日新聞の左傾化は一層ひどくなりました。
広岡氏は、社長を五期十年、会長を二期四年、専務時代を含めると在社の半分近くを役員で過ごし、一時代を画した朝日のドンです。
元朝日新聞社研修所長だった本郷美則氏は次のように広岡体制を論じています。
お家騒動で、広岡知男が政権を奪い、体制を左翼・組合人脈・経済部出身者を軸に固めるようになってから、様相は一変した。朝日新聞社は、明確に一九六四年の広岡政権樹立以来、新聞社というより、社会主義革命を志す活動家を主流とするプロパガンディストの政治集団と化して、今日まで、その面妖な人脈の支配を連綿と続けているのだ。
また、広岡氏の有名な話の中にこういうものがあります。
それを書けば国外追放になるという限度があるだろう。そのときは一歩手前でとまりなさい。極端にいえばゼロでもいい。書けなきゃ見てくるだけでもいいんだ。
当時、中国は文化大革命の最中にあり、日本のマスコミは朝日新聞を除いて追放されていた1966年9月のときです。広岡氏は北京赴任者にそのようにいったわけです。
藤原 このような状況になれば、朝日新聞内部からも過激派と同じ極左勢力が出てくるのは当然でしょうね。横井さん、思想的な問題を含めて、朝日新聞が起した事件を解説してください。
横井 朝日新聞の思想は、日本共産党と同根の反日思想と、共産党から分裂した暴力革命を指向する極左的な思想の二つが共存していると感じています。まずは、極左思考のグループが何をやってきたのかを考えてみたいと思います。
60年安保闘争の挫折から、学生運動も日本共産党系と反日共系に分裂します。両者ともいがみ合いながら大学を中心にして70年安保粉砕を叫んでいました。とくに、反日共系の学生は「全共闘」を結成し、学内では、学生会館占拠、バリケード封鎖などを行いながら、次第に勢力を拡大していきました。また,街頭デモでは火炎瓶などを投げて騒擾を引き起こしていましたので、社会問題化していました。
そうした中でも、マスコミは学生に同情的だったのですが、朝日新聞は抜きんでていました。朝日新聞社発行の『朝日ジャーナル』には、全共闘の論客も紙面に登場させるなど、半ば英雄的な扱いをしています。
しかし、70年安保は自動延長でしたから、かれらの闘争目的は果たせませんでした。結局、学生運動は目標を失い、一層過激になり、仲間同士で争う内ゲバや、ハイジャック、反戦目的のテロ活動などに向かい始めたのです。
そんななかで、朝日新聞が密接に関わったテロ事件が起きます。1971年8月21日に起きた、朝霞自衛官殺害事件です。概要は、赤峰さん、説明をお願いします。
赤峰 陸上自衛隊朝霞駐屯地で、歩哨任務中の一場哲雄陸士長が、何者かに殺されました。後に学生3人が逮捕され、協力者として朝日ジャーナルの記者が逮捕されています。この記者は朝日新聞を退社処分となります。【※1】
【※1】10月5日発売の朝日ジャーナルに「謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見」という記事が掲載された。この記事には、まだ一般に公表していなかった「警衛腕章」の強奪を示唆していたことから、犯人しか知りえない事実であることが判明した。朝日ジャーナルの記者川本三郎は1971年2月から犯人と親交を結び、犯人に金を渡すなどの便宜を図り、その見返りにスクープ報道の材料となる情報の提供を受けていた。川本はさらに犯人から犯行の唯一の物証である「警衛腕章」を受け取り、同僚記者の妻にこれを託し、1971年9月上旬に朝日新聞社高井戸寮の焼却炉で灰にさせていた。
藤原 それと、酒井信彦元東京大学教授のお話の中にこういうものがありました。
1974年8月30日には、東京・丸の内の三菱重工の玄関で爆弾が爆発し、8人の死者と数百人の重軽傷者が出た。この犯人は翌年5月になって逮捕されたが、「東アジア反日武装戦線」という極左暴力集団であった。朝日新聞は、事件発生の直後、31日の朝刊に、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)事務局長の「こんなことをやった人間が悪いといってしまえば簡単だが、やはり背景を考えなければならない」とのコメントを載せた。テロリストに理解を示したようにも感じる。
横井 朝日新聞の極左体質がよくわかったと思います。現在でも、極左体質をもった社員はかなりの数いるはずです。この点は評論家の吉本隆明【※2】氏から受けた影響もあるでしょうね。
【※2】吉本隆明:『共同幻想論』が有名。全共闘運動の教祖的存在。漫画家のハルノ宵子は長女。作家のよしもとばななは次女
赤峰 現在、聖学院大学学長で東京大学名誉教授の姜尚中(カン・サンジュン)氏は朝日新聞の中で
全共闘運動が最後の光芒を放った東大闘争の明くる年、吉本の著作と出会ったことは、上京してきたばかりのしがない「在日」の大学生にとっても大きな事件だった。吉本の丸山真男論をはじめて読んだとき、わたしはすかさず教祖にひれ伏す「信徒」になっていたのである。
と述べているくらいでして、吉本隆明の思想は当時の学生に重大な影響を与えています。この吉本氏の思想は、いまもなお朝日新聞のなかに相当根強く残っているものと思います。
横井 とくにそういう過激派色の濃いのが朝日ジャーナル系にいたようですね。これが1970年代の朝日新聞の特徴ですね。極左集団といわれてもおかしくない朝日新聞の実態です。
ところで、現在の朝日新聞は、大江健三郎氏のような非現実的空想社会主義者と、筑紫哲也氏のような反日アジテーターが共存しているようですね。共通するのは、親中・親韓で、日本をかの国に隷属させようと意図しているのは間違いありません。
次回は、2000年以降の朝日新聞の思想性を観察してみたいと思います。
赤峰 本日も戦後思想界の評論をされている識者からのお言葉をいただきます。
・終戦直後の国民は、敗戦により、宗教的、思想的なバックボーンさえも喪失していました。
・精神的支柱、つまり心の支えになるものは、「天皇」であったり、「古来からの宗教観」であったり、「道徳観」であったのですが、敗戦とともにいったん否定されてしまいました。
・それにとって代わるものを強く求めていた時代でもあったわけです。
・そこにあらわれてきたのが共産主義思想であって、それに安易に飛びついたのが朝日新聞社です。
・朝日新聞社は、共産主義思想が素晴らしいからではなく、「敗戦の辛さを誰かのせいにしたい」という単純な考えからだったのです。
・すでに最初の動機自体が、屈折した考えからスタートしていたのです。
・屈折した人々が戦後の日本の闇を形成したと言えます。
つづく
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